長門石 七木地蔵尊

久留米市の市街から筑後川を挟んで西側の長門石地区に、七木地蔵尊(ななきじぞうそん)という立派な地蔵堂があります。

 

本尊は、霊験あらたな地蔵尊として知られ、以前は平家伝説にまつわる両同院にあった榎・櫨・モチノキなどの七種の木が幹をあわせていた根元に位置していたことで、七木地蔵尊との名で呼ばれるようになりました。

 

 

入り口では横に大きく枝を伸ばした松の木が出迎えてくれます。境内の隅々まで手入れが行き届いて、気持ちよくお参りすることができます。

 

 

かつて肥前の龍造寺 氏が高良山にたてこもる大友宗麟を攻める際に、戦勝祈願を成就したことから、眼病、諸病とともに進学・選挙にご利益があるとされています。

 

 

毎年1月14日には、「七木地蔵新年大祭」が行われ、参詣客に鏡開きのぜんざいが振舞われます。

遠方からも参詣に訪れる人はあとを絶たず、特に毎月4のつく「恩日」には多くの参拝客で賑わいます。
七木地蔵板碑は「応永三年(1396)午十月道阿弥」の銘があり、久留米市の有形民俗文化財に指定されています。

 


 【年中行事】
恩日 毎月4日・14日・24日
大祭 1月4日初地蔵
   1月14日鏡開き(新年大祭)
   4月14日春季大祭
   8月24日秋季大会
弁財天恩日 毎月29日

 

 

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七木地蔵尊の伝説:

七木地蔵尊は古来霊験あらたかな地蔵尊として知られ、以前は平家伝説にまつわる両道院にあって、七種の巨木が幹を一つにしたようにそびえ立つ根元に鎮座していたという事から、七木地蔵の名が親しまれている。由来について確実な文献はないが、2,3の伝説はある。

昔、長門石字道場に両道院という寺があり、その跡に玉ノ井地蔵という通俗には七木地蔵といわれる地蔵があった。元亀元年(1570)-天正元年(1573)の頃、肥前の龍造寺隆信が、大友宗麟を攻めるため出陣の途中、この寺に戦勝を祈り、祈願成就に寺僧の願いを入れて、毎年洪水に苦しむ同地から浸水のない肥前千栗に移したのが、現在の大法寺である。ところがこの石仏だけはもとの寺院に帰ってきたという。(昭和12年金文堂発行の篠原正一氏著「久留米めぐり」による)

また、現在地蔵尊の前に、昭和29年8月再現された碑には、「古来長門石の地を鷲野原といい、千歳川に包まれた島で、長門石弁財天島といった。その川沿いに大樟があってそこに、五格寺があった。平重盛の建立と言いつたえられ、その一宇両道院の一隅にこの地蔵があった。
 両道院を千栗の大法寺に移した時、この地蔵尊が夢枕に立ち、長門石の地に帰りたいと言った。寺院は肥前千栗に移転したが、この地蔵尊は元の地に残った。
 現在の地蔵尊の位置から約200mばかりの所に八幡宮があり、その地が五格寺の跡と言われる。

 

 

 

本尊は霊験あらたな地蔵尊として知られ、以前は平家伝説にまつわる両道院に七種の巨木が幹を一つにしたようにそびえ、その根元に鎮座していたので七木地蔵尊の名で親しまれ、その下に一万部経宝剣金鶏が蔵されていると伝えられてきた。

高さ約1.83mの自然石に通肩の納衣をまとい右手に錫丈を持ち、左手を胸高く掲げて蓮座に立つ地蔵像が半肉彫りに表現され像の左側に「応永三年午十月」の銘が彫られているが、応永三年(1396)は丙子歳にあたり干支の午と子が似ているので違えたかと思われる。

長い間、旧河川の堤防際にあった本像は、昭和49年長門石土地区画整理事業、道路建設のため移転を余儀なくされ、約50m離れた現在地に7本の大樹と共に移転した。その際、板碑の下から木彫りの弁財天像が発掘されている。

市内には応永期の地蔵碑が数箇所あるがいずれも自然石を用い、蓮座に立つ正面像が厚肉彫りで顕されており、久留米および近郊における室町時代の地蔵信仰を知る上で、また美術的にも極めて貴重な存在である。

昭和49年11月1日、久留米市文化財に指定される
資料:七木地蔵の伝説・長門石町誌